私は東京を8月末に去りましたが、8月の間に東京近辺にある徳川・幕末ゆかりの史跡をいくつか見てきたので、記録に残したいと思います。
私は源義経のほかにも、徳川慶喜と土方歳三のファンでもありますが、三者それぞれ自分の夢を叶えることができなかった悲劇のヒーローといえると思います。今回めぐった史跡は、彼らに遠からず関係している史跡です。
上野東照宮
上野には過去に仕事で何度か来たことがありましたが、歴史のことはあまり知りませんでした。
上野には寛永寺があります。徳川家の菩提寺で、幕末には徳川慶喜が一時蟄居したところでもあります。また、戊辰戦争中には上野戦争の戦場となりました。
寛永寺の本堂は静かなところで、昔の面影は無いように感じました。寂しい感じがしました。
ただ、ひっそりとしていたのは根本中堂の辺りのみで、江戸時代は上野公園全体が寛永寺だったとのこと。上野公園にはそれなりに人がいて、ちょっと安心。徳川将軍のご威光はまだまだ消えていませんでした。
上野でラッキーだったのは、偶然見つけた徳川慶喜の墓に御参りできたことです。上野に行ったのは8月15日でちょうどお盆。うれしいめぐり合わせです。尊敬する徳川慶喜にばったりお会いできた気分でした。
また、徳川慶喜を神として祀る上野東照宮に行きました。本殿には全体に金箔が貼られていたようで、今も残っています。昔はさらにゴージャスだったはず。
最後に彰義隊のお墓で手を合わせ、西郷隆盛像を見て帰りました。幕府側だった彰義隊のお墓と、政府軍だった西郷隆盛の像がすぐ近くに位置しているのがとても奇妙でミスマッチに感じてしまいました。
水戸
水戸は徳川慶喜の出身地です。
慶喜の父である徳川斉昭が作った偕楽園に行きました。
偕楽園の中の好文亭からの景色は、緑がほんと美しかったです。
こんな美しい景色を眺めながら1日過ごすと気持ちいいのにな、なんて考えました。
徳川博物館に行った後、弘道館に行きました。こちらは徳川慶喜が学問を修め、また戊辰戦争時に蟄居していたところでもあります。徳川慶喜が蟄居していた部屋に当時の様子を描いた絵が掛けられていました。
弘道館に貼られている『尊攘』の掛け軸や大日本史編纂の資料などを見て、戊辰戦争時に徳川慶喜が抵抗せずに恭順した気持ちが改めてよく分かりました。水戸家は徳川御三家である以上に、天皇に仕える尊皇の家系だということです。また、慶喜は、七郎麻呂(慶喜の幼名)の頃から、骨身にしみて尊皇の教育を受けてきたのだろうと思います。
多摩
多摩は新選組のふるさとです。
土方歳三の墓→土方歳三資料館→日野宿本陣→佐藤彦五郎新選組資料館→新選組のふるさと歴史館と訪問しました。土方歳三資料館は実は4月にも訪れたのですが、今回は東京最後ということで、再度訪問することにしました。
今回は、ラッキーなことに土方歳三手植えの矢竹が限定販売されていて、購入することができました。これで土方歳三がさらに身近になった気分です。
日野宿本陣では、土方歳三や市村鉄之助が逗留した部屋に入ることができました。
4月に行った井上源三郎資料館を含め、土方歳三資料館、佐藤彦五郎新選組資料館は彼らの子孫の方によって運営されています。4月に来たときにも思いましたが、どこも家族の暖かさが感じられるいい資料館です。死後100年以上経ってもなお、子孫の方たちに思い出してもらえる。すばらしいことだと思います。僕の「家族」に対する価値観に少なからず影響を与えました。
日光東照宮
東照大権現こと、徳川家康が祀られている日光東照宮に行ってきました。
(ちなみに、上野東照宮にも徳川慶喜公と並んで、家康公が祀られています。)
世界遺産としても有名な日光東照宮です。
寛永寺とは打って変わって、こちらは華麗な建物がたくさん残っています。これは板垣退助が日光東照宮に立て篭もる大鳥圭介を説得して、下山させたからです。板垣や大鳥に感謝です。
「見ざる言わざる聞かざる」の三猿もいました。
日光東照宮では、家康が葬られている奥社宝塔(おくしゃほうとう)に向かう道で、写真の御遺訓を見つけました。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」
(東照宮御遺訓)
私が日光東照宮にお参りした頃、私はパニック障害という病気との闘いに明け暮れていましたが、この御遺訓を見て、心が落ち着いたのを覚えています。
家康公のおっしゃるとおり、急がず病気を治したおかげで、今ではすっかり健康体です。
家康公のご威光は、今でも健在です。
これで私の東京生活も終了
これで徳川・幕末ゆかりの史跡巡りは終了です。それとともに私の東京生活も終了。
江戸時代が終わってからまだたったの140年。滅び去った徳川幕府ですが、それにまつわる人々がめざしたものや想ったこと、考えたこと、風化させたくないと思いました。文化や伝統なども含め、これらを守り続けることも私たちの世代に課せられた使命のように感じます。